戦国大名「朝倉一族」の足あと・・・③
こんにちは、三味男です。
さて、チャリでいろいろ廻ってのご報告を・・・、と思いましたが、
その前になぜこの三味男が
「一乗谷朝倉氏遺跡」を皆さんにぜひとも紹介したい理由を今回はお届けいたします。
天正元年(1573)8月18日、一乗谷は織田信長の軍勢によって放火され三日三晩焼け続け一朝にして廃墟と化しました。荒れ果てた一乗谷を見限った寺社や住民はその後ことごとく北庄城下に移り一乗谷には農民だけが住みついて、その廃墟の上に田畑を開き、遺跡を地中に収めてこれをタイムカプセルりごとく約400年間も守り続けてきたのである。
現在。全国に数多くの戦国大名の居城と城下町の存在が確認されておりながらすでにその遺跡が多く破壊されてしまった中で、朝倉氏の一乗谷だけが全国でも類例のない遺跡として残ったのはこの為でありました。
つまり、戦国時代の暮らしぶりがそのまま保管されており、その上のビル等の建物が無い為往時の様子も伺える。と、いう事です。
繰り返しますが、一乗谷は、戦国大名朝倉氏の城下町がそっくり残っており、全国でも類例のない遺跡「戦国村」であります。一乗谷城は城下町の東側の山中にありますが、もっと大きな俯瞰で見たときに、この地域一帯全てが、「一乗谷城」と思えてならないのです。
北・東・南は山々に守られ、敵が攻めてくるであろう西側(福井平野側)には、カタカナの「ヨ」の字の様に小山がせり出しており、それぞれ「成願寺城」「槙山城」「東大味城」と囲むように城を築き、後世に言う”二の丸””三の丸”の役目も果たしていたと考えられます。
かの、大阪城は水堀りで囲まれた壮大な平城てありましたが、そういった視点で、「一乗谷城」を考えた時に、大阪城をはるかにしのぐなんとスケールのおおきな城ではありませんか。私は、ここに感動せずにはいられません。
そして、もうひとつ、「一乗谷城」は日本で始めての本格的な城塞都市でありました。戦国時代になると、小田原や石山のように城塞都市と呼べるものが出てきますが、そのさきがけというべきものが、「一乗谷城」なのです。
鉄筋コンクリートのお城を見るよりも、はるかに楽しいではありませんか。戦国のリアルがそこにあるのです。
長々となってしまいましたが、
次回からは、もうちょっと軽くお知らせいたしますので、よろしくネ
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